国鉄時代の想い出
今から遡る事63年猶予、昭和20年の10月21日が私の社会
生活の第一歩の日だ。即ち国鉄夕張駅の職員として採用された
日である。
次の写真は恐らく2~3ケ月経てからの駅全員の集合写真と思
われる。アルバムのメモに次の様に記されている。
夕張駅全職員(この時私は非番で一足先に家に帰る)
私にとって社会生活の第一歩を踏み出した職場だった。しかし、
この職場での最初の半年間の生活は、それこそ言語に絶する
苦痛の連続であった。
精神的苦痛と肉体的酷使の毎日の勤務の中で、世の中の不潔と
矛盾とを身に沁みる程味わされた。
社会に対する不信と懐疑は、軍隊生活によって失われた私の心に、
勉学に対する情熱を再び火の様に燃え上がらせた半年間であった。

最前列左二人の助役さんには大変お世話
になった。一番左側の方は、20才代で助役
になった優秀な方で、一番刺激を受けたし、
隣の方は定時制高校に通うとき、勤務時間
で便宜を図って頂いた。
次の写真は札幌鉄道教習所に入所中に写した集合写真である。
メモには次の様に記されている。
札幌鉄道教習所中等部運動会終了後(正面中央電燈真下が私)
半年の死に物狂いの勉強の結果、12倍の競争率を突破して合格
した時は、さすがに嬉しかった。
それも試験時間に2時間も遅れ、1時間で3科目やる約束で、やっと
受験を許可してもらっただけに尚更なことだった。
早大文学部出身のこの先生は、恋愛結婚で奥さんと仲の良い事は、
やがてものの哀れを知り始めた私にとっては、悩ましき限りだった。
それにも増して、先生の妹さん二人を見たくて、同僚と誘い合って
勉強の質問を種によく家を訪ねた。
私の文章の特異さを認めてくれたのも、この先生であった。
楽しかった3年間!

当時私の入所した業務科・その他機械科と
電気科或いは土木科だったかも知れないが、
3科あり、1科50人構成だった。
私は学級委員長に奉り揚げられ、連絡調整
と勉強の板ばさみで、悩みの連続だった。
全寮制だったが、食料難で買出しに行ったり、
直ぐに食料が欠乏し、一時帰休の事が多か
った。

入所直後、地元の村での記念撮影の私です。

鉄道教習所卒業後、駅に戻ってから先輩の
諸氏と文学愛好会を組織し、せせらぎグループ
と称した面々です。右端が私です。
駅の直ぐ傍の神社の境内にて写す。
鉄道関係の写真は少なく、それだけ勤務が厳しく写す
暇が無かったのかも知れない。
生活の第一歩の日だ。即ち国鉄夕張駅の職員として採用された
日である。
次の写真は恐らく2~3ケ月経てからの駅全員の集合写真と思
われる。アルバムのメモに次の様に記されている。
夕張駅全職員(この時私は非番で一足先に家に帰る)
私にとって社会生活の第一歩を踏み出した職場だった。しかし、
この職場での最初の半年間の生活は、それこそ言語に絶する
苦痛の連続であった。
精神的苦痛と肉体的酷使の毎日の勤務の中で、世の中の不潔と
矛盾とを身に沁みる程味わされた。
社会に対する不信と懐疑は、軍隊生活によって失われた私の心に、
勉学に対する情熱を再び火の様に燃え上がらせた半年間であった。

最前列左二人の助役さんには大変お世話
になった。一番左側の方は、20才代で助役
になった優秀な方で、一番刺激を受けたし、
隣の方は定時制高校に通うとき、勤務時間
で便宜を図って頂いた。
次の写真は札幌鉄道教習所に入所中に写した集合写真である。
メモには次の様に記されている。
札幌鉄道教習所中等部運動会終了後(正面中央電燈真下が私)
半年の死に物狂いの勉強の結果、12倍の競争率を突破して合格
した時は、さすがに嬉しかった。
それも試験時間に2時間も遅れ、1時間で3科目やる約束で、やっと
受験を許可してもらっただけに尚更なことだった。
早大文学部出身のこの先生は、恋愛結婚で奥さんと仲の良い事は、
やがてものの哀れを知り始めた私にとっては、悩ましき限りだった。
それにも増して、先生の妹さん二人を見たくて、同僚と誘い合って
勉強の質問を種によく家を訪ねた。
私の文章の特異さを認めてくれたのも、この先生であった。
楽しかった3年間!

当時私の入所した業務科・その他機械科と
電気科或いは土木科だったかも知れないが、
3科あり、1科50人構成だった。
私は学級委員長に奉り揚げられ、連絡調整
と勉強の板ばさみで、悩みの連続だった。
全寮制だったが、食料難で買出しに行ったり、
直ぐに食料が欠乏し、一時帰休の事が多か
った。

入所直後、地元の村での記念撮影の私です。

鉄道教習所卒業後、駅に戻ってから先輩の
諸氏と文学愛好会を組織し、せせらぎグループ
と称した面々です。右端が私です。
駅の直ぐ傍の神社の境内にて写す。
鉄道関係の写真は少なく、それだけ勤務が厳しく写す
暇が無かったのかも知れない。
この記事へのコメント
仕事に学業にと御苦労なされた時期ですね
いつもkunityanさんの精神力には並々ならぬものを感じます
入所直後、地元の村での記念撮影は写真館で撮られたのですか?
なかなか 決まってますよ
何処に居ても邦ちゃんは凄い頑張り屋さんでリーダーとして
みんなに信頼されていたのが、解りますわ。
あの籐の椅子も時代が偲ばれてとても懐かしいですね
雑務手と言う何でも屋の仕事の屈辱さが悔しかった
のです。
当時教習所は、軍隊の兵舎の跡を活用したのですが、
殆ど農家ばかりの場所で、街へ行くには可なり歩か
ねばならぬ程不便な所でした。
今では当時の面影は何処へ行ったやら、市となって
隙間無く住宅や商業都市として栄えています。
終戦直後の混乱がまだ余韻として残っている
時代ですから、教習所に入所した仲間には
陸軍の少年飛行兵や海軍の予科練の復員兵が
数多く入って来ました。
それだけ当時の中学生は、勉強どころではなく、
学力が劣っていたのでしょうね。
入所中の食事でも、味噌汁でなく塩汁でした。
米が少なく、じゃが芋の塩煮等が出ました。
腹が減るので、衣服を持って付近の農家で米や
そば粉と交換してもらい、空腹を満たしました。
乗り越えて合格すごいですね
邦さんらしい頑張りでさすがですよ
その頃はみんな若くて元気がありましたね
終戦直後のドサクサ紛れの時代、銃後に残った
同級生は援農等に狩り出され、学力低下で中学
等から合格した人は少なかった様に思います。
少年飛行兵等の学力は結構ありましたので、
合格率は高かったようです。
写真で見るように、馬力の良い同期生の
雰囲気が窺えるでしょう。進駐軍と喧嘩した
連中もいました。