東京大空襲
今日の読売新聞36面に、「街焼けた夜私を
産んでくれた母」と題しての記事が掲載された。
この方は東京空襲の1時間前の、3月9日の
午後11時7分に、墨田区内の病院で生ま
れた。
当然病院にも炎が迫った。足手間といになる
と思ったお母さんは、「残してもらってもよい」
と訴えたが、「患者を殺して、医者が生きられ
ますか」と担架で親娘を病院の寮に運び込ん
で助かったそうです。
この逸話は戦後、道徳の副読本にも紹介され
たそうです。
娘さんが当時の事を知ったのは、20代半ばの
ときだった。
昭和45年頃、被災者の証言を集めていた
早乙女勝元さんの取材を受け、傍で聞いていた
そうです。
母親は父親やきょうだいの事を殆ど語らなかっ
たが、父親と当時4才から20才までの5男7女
のきょうだいを亡くした事を、仏壇の位牌が示し
ていた。
苦労して娘を育て上げ、78才で亡くなった後も、
娘さんも同様に語ることは無かった。
しかし、戦後65年「語ることは助けられた者の
責任」と考えたという。
「伝えられていない母の苦悩を知ってもらいたい。
このやるせない、心の穴は埋まる事はなかった」
「優秀な技術者の父、可能性を秘めていたきょう
だいを奪った空襲が許せない。多くの犠牲の上に
今があることを忘れずに、平和を願い続けたい」
つい昨日か一昨日も、この大空襲の後、新宿付近
を襲った空襲の悲惨な実態が、子供さんを通して
父親の手記が公開され、新聞かテレビで紹介され
ていた。
私も平成19年11月25日に東京大空襲の経験を
ウエブリSNSで載せている。
私自身も新聞やテレビで見ない限り、思い出せない
ほど風化してきている。心して平和の有難さを噛み
締めなければと思った次第です。
産んでくれた母」と題しての記事が掲載された。
この方は東京空襲の1時間前の、3月9日の
午後11時7分に、墨田区内の病院で生ま
れた。
当然病院にも炎が迫った。足手間といになる
と思ったお母さんは、「残してもらってもよい」
と訴えたが、「患者を殺して、医者が生きられ
ますか」と担架で親娘を病院の寮に運び込ん
で助かったそうです。
この逸話は戦後、道徳の副読本にも紹介され
たそうです。
娘さんが当時の事を知ったのは、20代半ばの
ときだった。
昭和45年頃、被災者の証言を集めていた
早乙女勝元さんの取材を受け、傍で聞いていた
そうです。
母親は父親やきょうだいの事を殆ど語らなかっ
たが、父親と当時4才から20才までの5男7女
のきょうだいを亡くした事を、仏壇の位牌が示し
ていた。
苦労して娘を育て上げ、78才で亡くなった後も、
娘さんも同様に語ることは無かった。
しかし、戦後65年「語ることは助けられた者の
責任」と考えたという。
「伝えられていない母の苦悩を知ってもらいたい。
このやるせない、心の穴は埋まる事はなかった」
「優秀な技術者の父、可能性を秘めていたきょう
だいを奪った空襲が許せない。多くの犠牲の上に
今があることを忘れずに、平和を願い続けたい」
つい昨日か一昨日も、この大空襲の後、新宿付近
を襲った空襲の悲惨な実態が、子供さんを通して
父親の手記が公開され、新聞かテレビで紹介され
ていた。
私も平成19年11月25日に東京大空襲の経験を
ウエブリSNSで載せている。
私自身も新聞やテレビで見ない限り、思い出せない
ほど風化してきている。心して平和の有難さを噛み
締めなければと思った次第です。
この記事へのコメント
来週に延びたそうですね、姪御さんの
結婚式も近づいてきましたが弟さんの
ご容態は如何ですか、
3月10日は東京大空襲から65年目
の悲しい記念日でしたね。私の弟がその日
から1カ月後に生まれましてそれは終戦の
年でもあり、弟の年を考える時、自然に
敗戦時を思い出すのです。
当時は石川県に疎開していましたから
直接の空襲は見ていませんでしたが、後に
主人に聞いた話で大阪の空襲も凄かった
らしく、防空壕に入っていて、近くに爆弾
が落ちる時、地下の中で蹲っている頭上に
ザアーっと砂が落ちて生きた心地はしない
と言ってました。間もなく主も18才で
赤紙が来て敗戦3か月前に出征して行った
そうです。
雷が鳴って来たのでここで止めます。
末弟は先週の電話で、私の説得を
受けて、やっと人工透析を受け、
月水金通っていて、まだ効果の程
は分からないが、体のだるさは
解消しないそうです。
肝臓は人工移植しか手はなく、
現状維持の薬の投与で治療して
います。
自分でも、そう長生きが出来ない
から無駄だと言っていましたが、
少しでも可能性のある治療を続け
て欲しいと思っています。
空襲の恐ろしさは、最初は身が
すくむ様な経験でしたが、余り
何回も続くと如何でも良くなる
もんですね。
頭上を過ぎて行く「ザー」と
いう爆弾の風を切る音は、命の
縮む思いでした。
機銃掃射が傍を土煙を立てながら
通り過ぎて行くのも、もうこれで
お終いかとの恐怖感でした。
ご主人も兵役で出征されたよし、
屹度同じ様な経験を持たれた事
と思います。
結婚式には車で行くので、明日午後
から点検の予約をしました。
前記事から拝読いたしました
そうそう女房は体が丈夫な人がいいです
戦争体験はその時に体験した方でなければ
解からない辛さばかり
語り継ぐにはあまりにも壮絶でしょうが
語り継ぐ事は同じ過ちを起こし
再び戦争を起こさないための道しるべと
なるためには必要な事だと感じます
それでなくとも先頃アメリカとの
密約等が表面化したり。。。
いったい政府は何をやろうとしているのか。。。
戦争でどれほどの方達が悲惨かつ悲痛な思いを
されたのか
歴史は繰り返されると言いますが
悪しき歴史は繰り返していけませんね
この読売新聞の記事の直前に、3月10日
の後5月に、燃える場所を探すかの様に
山の手付近を空襲した惨劇を、当時お父さん
がノートに書き留めていたものを、息子
さんが表に出そうと決意したそうです。
お父さんは新宿から、累々とした死体の
中を品川の我家まで歩き続けた惨状が
発表されていました。
訓練中同期で亡くなった戦友はいなかっ
たが、同じ校舎で訓練を受けた1期後輩
がB29の爆撃で何人か亡くなっています。
この東京大空襲1回の爆撃で8万人或いは
10万人とも言われる人が亡くなったと言
われています。
当時戦災地の後片付けに上野に動員されて
いますが、焼夷弾の不発弾を見ました。
ピンク色の液体が筒状の中に詰め込まれた
ものが、1発の爆弾の中に多数収納され、
空中で分解され点火されたものが、花火の
様に落下してくる。
消すどころ騒ぎじゃない。逃げるのも大変、
逃げ場を失って川や不忍池に飛び込んだ
ものと思われます。
こんな惨状を生み出す戦争は、二度と
起こしてはなりませんね。