平成10年少飛会・兄弟会参加旅行(続)

10:05:22 08:45
ひるがみ温泉の国民年金
保養センターで記念撮影
し出発する。
09:16 飯田に戻る6号線が分岐している交差点
を通過。
09:27 馬籠入り口から左折し、旧中仙道(7号線)
に入る。
09:44 馬籠峠に達する。道路狭くなる。
09:49 馬籠宿の駐車場に入る。
ここで島崎藤村の「夜明け前」の舞台ともなった馬籠について少し説明
をします。
馬籠に通じていた中山道は、江戸日本橋を基点とし京都まで530kmの
道路で、ここには69箇所の宿場が置かれていた。
中山道69宿の内、木曾には11の宿場があり、馬籠宿は板橋を1番目と
する43番目になり、江戸からの距離は332kmになる。
道路が南北に貫通しているが、急な山の尾根に沿っているので、急斜面
で、その両側に石垣を築いて屋敷を造る「坂のある宿場」である。
明治新政府の発足により宿場の機能は相次いで廃止された。1182年
(明治25年)中仙道に変わって木曽川沿いに国道が開設され、さらに
1912年(明治45年)国鉄中央線が全線開通したことにより、馬籠、妻籠
は全く人通りが絶え、両村は陸の孤島化し、村の経済は急に寂れていった。
長い間の貧困生活の中で、外部からの刺激もないまま江戸時代さながらの
生活を続けてきた両村が、観光地として脚光を浴び出したのは日本が高度
成長期に入って頃からである。
馬籠は、島崎藤村の生地として、藤村記念館を訪れる人が飛躍的に増加
するようになった。観光客の入り込み数が増加すれば、当然これを受け入
れるための、宿泊施設や食堂、土産店が出現し、労働力の重要も増加し、
地域が活気を呈してきた。

馬籠宿の石柱の標柱の傍で。

高札場です。
宿や村の庶民に法令を徹底させる手段として、高札が設けられていた。高札場の管理は厳重で、古くなって墨文字が薄くなって書き直す必要になっても、藩の指示を待たねばならなかった。現在馬籠では、当時の場所に忠実に復元してあるが、その内容は正徳元年(1711年)の記録のものである。

馬籠の宿場通りです。
観光客が大勢でした。

当時の装束さながらの服装で、
のんびり郵便物を配達していた。
藤村記念館の石柱の標柱が目に入り訪れる。
先ず島崎藤村の「夜明け前」の馬籠の描写から入ります。
「馬籠は木曾11宿の一つで、この長い渓谷の尽きたところにある。
西よりする木曽路の最初の入り口にあるた。そこは美濃境にも近い。
美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山道をよじ登って来る
ものは、高い峠の上の位置にこの宿を見つける。街道の両側には
一段ずつ石垣を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪を
しのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。」
島崎藤村がこう表現した馬籠宿の中ほどに、藤村記念館がある。
木曾から下ると、妻籠宿を後にして、狭く急峻な峠を越え、視界の開
けた場所に馬籠宿の入り口がある。
現在は車道が旧中仙道の街道を交わり離れしながら峠を越えるが、
徒歩や馬を交通手段にした頃には難所を越えて、旅人がほっとした
瞬間にこの宿場に出会ったことが伺える山道である。
宿場の入り口を「藤村記念館」の標識を目印に降りて行くとやがて、
本陣を再現した資料館が現れ、大きな家を挟んだ隣に「藤村記念館」
の看板と入り口に行き当たる。
島崎藤村は、明治5年(1872年)この馬籠宿の代々本陣を務めて
いる家に生まれている。「夜明け前」の舞台にもなった生家は、明治
28年の大火により焼失しているが、昭和18年(1943年)藤村の
死去、埋葬に当たり、本陣跡の土地提供の発案があり、村人の協力
もあって、昭和22年に藤村記念堂が唯一焼失を免れた本陣の隠居所
に隣接して建てられた。
現在、この藤村記念堂を中心として、3つの文庫を加えて藤村記念館
として公開されている。第1文庫は研究室となっており、現在、企画
展示を行う第2文庫と、島崎藤村関連の資料を展示する常設展示室の
第3文庫は、記念館入り口からの、のんびりとした感じとは違い、島崎
藤村の足跡を十分に感じさせてくれる。

藤村記念館の石柱の標柱の傍で。

本陣をあしらった藤村記念館。

馬籠の宿場を歩いていると
おばあちゃんが民芸品を作っ
ている姿が目に入り、思わ
ず立ち止まる。腕輪を求める。

馬籠宿から国道に通じている
ローカル道が曲がりくねって
下っている光景が眼に入る。
11:37 馬籠宿に2時間弱滞在したが出発する。
11:45 馬籠宿を出発して、国道への近道の
永昌寺付近から、山口村へ出て、19号線
に入る。
11:55 南木曽の吾妻橋交差点で、昨日上がって
来た256号線に若干戻る。
11:58 妻籠宿に到着。
妻籠宿は、中仙道と飯田道の分岐点に位置し、古くから交通の要所
として栄えた。昭和43年に町並み保存が始められ、昭和51年に国の
重要伝統建造物保存地区に選定される。
全長約500mの町並みは、江戸時代にタイムスリップした感じで、
どれも当時の面影を残し、懐かしさと郷愁を感じる情緒いっぱいの
宿場町である。
妻籠宿と馬籠宿を結ぶ位置に聳える馬籠峠は、標高801mの峠である。
馬を引いて越える事が出来ないほど、嶮しい道のりだった事からこの名前
が付けられた。現在の峠道は、檜林の中の快適な、信濃路自然遊歩道
として整備されている。
明治24年に峠越えをした正岡子規の句碑や、吉川英二の小説「宮本武蔵」
に登場する男滝、女滝がある。江戸時代に木材が木曾から出ないように、
監視していた番所跡などの見所を、巡りながらハイキングが出来る。

妻籠の宿場通り。

妻籠宿場通り。

宿場通りを歩いている内に、
疲れたので休んでいると、
猫ちゃんが出て来たので、
手招きしてみる。

妻籠郵便局資料館の前で。
妻籠宿の観光を終えて多少疲れも覚え、休憩を兼ね食事をする
ため、そば屋に入る。十割蕎麦を注文する。
13:06 妻籠宿に約1時間滞在し出発する。
13:08 再度南木曽の吾妻橋交差点に戻り、
右折して19号線に入り、木曾福島を
目指す。
13:55 木曾福島の分岐点で、高山に向う
361号線が出ているが、そのまま
19号線を進む。
14:19 奈良井宿に到着。奈良井駅の傍に
車を止め、元来た道方面に観光に
歩き始める。
奈良井宿は、中仙道34番目の宿場である。現在は長野県塩尻市に
位置する。
木曽路11宿の江戸側から2番目で、11宿の中では、最も標高が高い。
難所の鳥井峠を控え、多くの旅人で栄えた宿場町は「奈良井千軒」と
言われた。
江戸寄りから下町、中町、上町に分かれ、中町と上町の鍵の手に曲が
った箇所がある。水場は、山側に64箇所ある。
現在も重要伝統的建造物保存地区として、当時の町並みがそのまま
保存されている。また、江戸時代から曲げ物、櫛、漆器などの木工業
が盛んで、旅の土産物として人気があった。

奈良井駅をバックにして。

妻籠宿の道標の傍で。

奈良井の宿場通り。

奈良井の宿場通り。
観光中に、六神丸の看板が目に入り、胃薬にと思いお店に入る。
薄暗いお店だ。女将さんに聞くと、照明とかその他人並みに
近代的に改修したくても、制限されていて致し方ないと思っている
と話を聞き、保存地区の実態を垣間見た感じだ。
15:07 奈良井宿に1時間20分ほど滞在し出発。
15:38 何回も通り馴染みの交差点だ。松本の
渚1丁目の交差点である。左に158号線で
上高地・高山方面、右に松本城・上田方面
に分岐している。そのまま真っ直ぐ進み、
やがて147号線に入る。
17:02 大町の旭町交差点付近は、最初に右に55
号線、次いで左に45号線が分岐して行く。

17:25着
17:47発
道の駅「白馬」にてトイレタイム。
この付近は、冬季オリンピッが
開催された場所だ。
18:43 日本海側の糸魚川に出るが、出る前に、曲がり
くねった下り道路の覆道が、延々と続きハンドル
操作が厳しい所だ。
19:11 名立のコスモで給油する。
20:15 柏崎を通過。途中コンビニで夕食を求める。
予定時間をオーバーしているので、間に合わない
場合高速を利用する事を念頭に進む。
夜間の故か車が殆ど無い。前を行く車がスピードを上げて飛ばす。高速
並みだ。心配したことも無く新潟市内に入ったが、夜間で道順が捕らえ
辛く、時間をロスし結局到着時刻ぎりぎりとなる。
21:30 新潟ターミナルに到着。既に乗船開始していた。
22:10 同ターミナル出発。
乗船後、2等寝台にて遅い夕食を済ませ、就寝する。
10:05:23 起床後の船内様子を簡単に紹介する。

2等寝台が奥の方に連なっている。

フロントの前です。この前にロビー
が広がって、テレビもあり寛ぐ
スペースです。向こうに売店も
見えます。

2等寝台の様子です。マツト・毛布・
敷布・枕が用意され、自分で寝る
準備をします。カーテンで覆われ
れるので一応外部から見えません。
寝室内に照明がありますから、
読書等は出来ます。

船内食堂です。三食時間帯に案内
放送がありますので、此処で食事が
取れます。バイキング方式、洋食、
丼物、飲物等用意されています。

北海道の渡島半島の突端の
沖に大島が見えました。

暫く進むと半島の中間地帯の
沖にある奥尻島が見えます。
10:05:23 17:17 小樽ターミナルに到着。
19:15 札幌自宅に到着。
13日に自宅を出てから、10日ぶりに我家に戻って来た。
走行延べ総距離数は、1246kmだった。
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